連載中『本』-プロローグ-
青年が【それ】に遭遇したのは、出勤時の満員電車に乗ろうとした時だった。
ドアが開くと、「すみません、降ります!」と颯爽と出てきたスーツ姿の若い女性が、手にしていた本を落とした。
見えている本の裏表紙には女性の名前がマジックで書かれていた。
(なんとか真由美?)
苗字の部分が分からなかった。漢字が読めないとかではなく、書かれている形は見えてはいるのに、苗字だけ角度がおかしいのか分からなかった。
青年は自分の足元にあるその本を取って女性に手渡した。
女性はにっこりしながら言った。
「どうもありがとうございます!」
女性の手が本に触れた瞬間、青年は何か妙な感覚を覚えたが、女性からの質問でそれはかき消された。
「ところで貴方、自分の本は?」という質問に「え?私は今本は持っていませんよ?」と返答した瞬間、
「えー!!」
その女性だけでなく、恐らく青年の返答を聞いたほぼ全員が叫んだ。
青年の目は丸くなった。
「ちょっと来て!」
女性は青年の腕を引っ張って、急いでその場から立ち去った。
女性は青年を駅近くの小さな公園に連れてきた。
「ここは誰も居ないようだし大丈夫ね。とりあえず、これ持ってくれる?」
さっき女性が落とした本を渡された。青年の手が本に触れた瞬間、また妙な感覚を覚えた。青年は先程も同じ感覚を味わったのだが何と言い表したら良いのかまた分からなかった。
本を渡された事になんの疑問も無かったし、読めない苗字についても興味は無くなっていた。少しだけ気になったのは、「ここは誰も居ないようだし大丈夫ね」という言葉だった。
「一体どういうこと?僕はこれから会社に行かなきゃならないのだけど」
女性が敬語をやめているので、青年も敬語を使うのをやめた。
女性は言った。
「あなた、さっき凄くやばいこと言ったのわかってる?」
「ん?何のこと?」
「あぁ、やっぱり置き去り人かぁ。わたしの目鋭いわぁ~!鋭いっ!」
「置き去り人とは・・・?」
「置き去り人っていうのはぁ!」
青年は女性の口から発せられる若く元気な声の説明を聞いた。
青年にとって、その若い女性は憧れの対象となるほど好みの容姿だった。歳も自分と変わらないだろうと思った。その女性の話した内容は、およそ誰も信じない非現実的な内容だったが、おざなりにしてしまったら【勿体ない】と思ったので、勿論まだ信じる事は出来ないが馬鹿にする事なく、とりあえず真剣に話を聞いてみた。
会社は体調不良で休む事にした。
青年は彼女からかくかくしかじか長時間に渡って聞かされた。
途中から話が長くなるであろうことに気づき自分の手帳に箇条書きでメモした。
- この世界は【突然世界】と認識されている
- 【置き去り人】とは、【突然世界】に順応できていない人のこと
- 順応があたりまえなので順応できている人に対しての呼称はない
- 【置き去り人】は、【配置】されてから約1ヶ月で存在が【掃除(け)】される
- 【置き去り人】を目の前にしたときは「えー!!」と驚かなくてはならない。言わないと【掃除人】に【掃除(け)】される
- 【突然世界】において、外出時は【掃除人】と呼ばれる人から貰える【本】を常に手に持っていなくてはならない(でないと【掃除人】に【掃除(け)】される)
- 【本】を渡された瞬間から彼女は俺の【掃除人】となっている
- 1日1回、【本】を適当に捲って出てきた頁の【To Do】を必ず実行しなければならない
こんなことを聞かされたら、あなたならどう思う?
普通はこの様な話、まず信じる者は居ないのだが、青年は彼女から聞いた話を信じる事にした。理由は簡単。青年はいわゆる惚れやすい男であり、その【掃除人】に恋心を抱き始めている事に尽きる。だがそれだけでは、ただの「女に目が無いだけの男」という事になってしまう為、青年は言い訳を考え、持論を述べた。
「映画やドラマで、到底信じられないことを納得してもらうのに凄く時間かかったりするよね。そういうのを観るたびに俺は思ってたんだよ。一人くらい、聴いてすぐに信じてくれる人っていないものかな。いや信じてあげようよ!可愛そうじゃん!って。だから君を信じるよ。」
「本当に!本当に?それ凄い助かる~!!今口で言った事、忘れないでよぉ~?」
青年はちょっと楽しい気分だった。普通の若い男ならこんな可愛い娘が楽しそうに自分と話してくれたら、誰だってこうなると心の中でまた言い訳をしていた。
とはいえ、「信じる」というのは言うほど簡単ではない。口で信じると言うだけなのと確信はイコールではない。青年は、どちらかというとまだまだ前者の方だった。青年は【掃除人】に【洗脳】されたいと思った。信じたい気持ちを確信へと昇華させるために。
「はい!というわけでぇ!!これからあなたと私は正式に【置き去り人】と【掃除人】の関係になったんだから、自己紹介くらいしはとかなくちゃねー!詳しい説明は後ほどって事でお願いしまぁす!」
「はぁーい!ちゅうもぉーく!私の名前は真由美といいまーす!苗字はどうでもいいのでおっしえっませーん!」
「は、はぁ…」
(明るいのは明るいが、うるさい系なのか?)
「あなたはぁ?」
「トウマ。南斗の「と」に真っ直ぐの「ま」。」
「あはははは!南斗だって!あんた変な人ねっ。それ言うなら普通、北斗の、でしょ!!あはははは!」
「いやいやそんなに面白くはないでしょ。っていうか、もう漢字の説明する時に【北斗の】って説明するの飽きたんだよ。だから南斗にしてんの!敢えてだよ!あ、え、て!」
こうして真由美と斗真の自己紹介合戦と相成ったのだが、斗真は自分が物覚えが悪いことを自覚しているので、またメモに残した。意味がわからない部分が多々あるがそれはあとで全部質問攻めすればいいと考えた。
- 名前:どうでもいいのでおっしえっませーん 真由美
- 性別:見りゃわかるでしょ
- 年齢:聞くな
- 職業:掃除人だって!
- 住んでる場所:下
「以上〆…っと。」
「よくメモするわねぇー、ちょっと見せてー?」
「ほい」
斗真は手帳を手渡した。
「あはははは!苗字の所どうでもいいのでおっしえっませーんって、わたしが言った通りそのまま書いてる!!あはははは!あんた本当に面白い人ねー!うけたわ!ふぅ、ふぅ、ふうぅぅぅぅー…」
「はは..それでご覧の通り、謎だらけなんだけど…!!」
「うーん、何ていうか、そのうち教えるからさぁ、今は私の事、あんまり詮索しないでほしい、かも?」
(「かも?」と発した瞬間の上目遣いがちょっと可愛い…)
なんとなく声を漏らす斗真。
「相乗効果ですね、わかりますー…」
「何がぁ?」
「なんでも無い」
「ん~?」
「いや、分かったよ。詮索しないよ。下の名前だけね。」
「まぁいいや。よろしく~。それじゃわたし、あなたのこと斗真って呼ぶからね」
「じゃぁ俺は真由美って呼ぶよ」
「いいよー。いつも置き去り人にはそう呼んでもらってるから。」
斗真は真由美の表情が少し暗くなったのを感じた。
「その、置き去り人とかの話は勿論聞いても良いんだよね?」
「え?あぁ…説明するよ。ひとつずつ。」
周囲を見回し真由美は言った。
「でも、こんな所じゃなんだからさ、喫茶店でも行こうよ。」
「あー、そこ俺の部屋の最寄りの駅だから、喫茶店なら色々知ってるよ。」
「私も知ってるけど?この街周辺の掃除担当だからね。」
「あぁ…、なるほど…」
「あ、ここ?」
真由美が聞いた。
「そう。近場で早朝からやっているのはここくらいだから。」
斗真が連れてきたのは、線路の向こう側の、建物全体が蔦で覆われている【喫茶CoCo】という店だった。
近代洋風建築の喫茶店。店内はとても暗く、壁に飾ってある沢山の肖像画はうっすらと見えるものの殆ど影になっていてわからない。客席は銅像やら柱やら植物で間仕切りされており、何人用なのかも実際仕切り内を覗いてみないとわからない作りだった。
「おぉ~。大正ロマンって感じだねぇ~。ここ初めてだよぉ~」
真由美はひとつの仕切り内を覗き込みながら静かに言った。
「雰囲気いいでしょう?俺の好きな席があるんだ。こっちおいで」
「ふむ」
壁にくっついた二人分の机と2つの椅子。
「どうぞ」
斗真は奥の座席の椅子をを引いて勧めた。
「これはこれは」
二人が席に座ると、奥の方から扉がきしむ音がし、少しして年配の女主人がやってきた。
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